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風のうた展と盆栽の話


暑い、とても暑い・・・


真夏日の中、下北でのグループ展、風のうた展に参加させていただきました^^


私はコロナの蔓延によって展示が出来ずにいた盆栽の作品にカニを加筆して展示をしました。



加筆前の盆栽の作品がこちらで観れます。蟹を加筆したらだいぶ印象が変わりました。







私は家族で干潟に行ってプラケースにカニやヤドカリ、ボラなどを捕まえて暫くその場で鑑賞するのが好きです。



見るのに満足したらすぐに海へ放流します。

小さなカニでも甲羅が丸っこいもの、平べったいもの、目がぴょこぴょこ飛び出てるもの、色んなカニがいます。とっても可愛いです。



私の絵の中に登場するカニは、園芸に長けていて、特に盆栽の剪定は任せて!と頼もしい働き者です。


盆栽の作品は、見方によっては痛々しいをした姿をしています。


不自然に幹が曲がり、また持ち上がったりする造形を見て、


人によっては龍が生きているような、とても雄大な姿にも感じられます。


または逆に瀕死の松、だらりとしていて力がなく見えるという方もいました。



人の手で矯正しなければこのような形にはならない盆栽の松です。


しかし強い針金や鉄柱などを使って、このような変わった姿の作品にする事が良いのか、


それともなるべく矯正させず自然に任せるのが、これからの時代新しい盆栽のあり方なのか。

私の中でも答えが右往左往して苦労しました。


盆栽について考え始めてから、もやもやしたまま4年半も経ってしまいました。

私は盆栽を作ることを、自分で作る絵として置き換えて振り返ってみると、


矯正をせず、自然に任せて生まれるものは殆どありませんでした。

演奏家が即興演奏するにしても、今まで積み上げた実力や技術の上に音の波が生まれるように

絵画も絵具や素材による偶発的な現象をおこす事はあるものの、それを生かして表現の深みを引き出すことはあっても、


それを出しっぱなしにして「これが私の作品です」とする事は、私の性格上、出来ませんでした。


必ず加筆して、削って、作品の方向性を考えて整えます。




私は自分の作品には、伝わるか、伝わらないかは置いておいて、前もって自分なりに考えた哲学があります。


だから、私の場合は自然に筆や素材に任せることはせず、自分のあたまの中にあるイメージに近いところまで矯正します。


ある程度の形が出来上がるまで、私は素材に全部の責任を負わせません。


結局素材が優秀であっても、素材の力に助けられることがたくさんあったとしても、


それらは作者が手を尽くして料理しなければ自分の作品になり得ないと考えてしまいます。



作り手が素材に責任を持って、素材の特徴をよく学んで。


理想の形を考えて、時には矯正して。


途中経過もよく観察して、都度管理して剪定して。


時が来たら矯正したものを取り外して、整えてあげて発表するのです。

盆栽も同様に、作者が勤勉に、真心と愛情を込めて長い時間試行錯誤して、理想に向かって手を加え続けたからこそ、


非現実的だけれども、もっと迫り来る何かを感じるような作品の姿に人々があっと見上げて、


感嘆し、小さな作品の中に雄大な一面や強さ、美しさをより感じるようになるのかなと思うようになりました。




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